2011/09/23

死ぬこと

月曜日の仕事中に病院にいる母から電話で、祖母が危篤状態との知らせを受けた。

大急ぎで入院先の病院に向かうと、そこには息も絶え絶え、苦しそうにしている祖母の姿がありました。

「よく頑張ったね」と声をかけ頭を撫でてやると、声は聞こえているらしく、涙を流してくれました。

1時間後、僕の到着を待っていてくれたかのように息を引き取りました。

同居したことはなかったけれど、幼い頃に両親が共働きだったので、よく祖母の家へ遊びに行って面倒を見てもらった記憶があります。
おしん」をよく一緒に見ていたのが印象的。

しばらくして、親戚同士の仲違いが原因で疎遠にはなってしまったけれど、3年前の父の死をきっかけに再び交流が生まれ、実家にもよく遊びにきてくれるようになりました。

その時から既にボケが少し入ってしまってて、いつも僕のことを誰かと勘違いしている時があったり、親父の遺影の前でひたすらお経を唱えたり、家を抜けだしてうどん屋さんでご飯食べたり(お金も持っていないのに)してました。

ボケてはいたものの95歳にしてはかなり元気な方だったので、もう少し先かなとも思っていましたが、案外あっけなく死は訪れました。

冗談半分で父の三回忌の時に僕が撮った祖母の遺影用の写真がこんなに早く使われるものとは思いもよらなかったけれど、とてもステキな笑顔をしていて、親戚一同喜んでもらえたのはよかったです。きっと祖母もあの世で喜んでいるでしょう。


ここ最近、2年に一度のペースで葬儀に出席するようになりました。
若くしてこの世を去った方もいらっしゃいます。

「生きることはどのように死ぬかを考えることだ」

人は生まれた瞬間から死へ進んでいっています。
避けることのできない死と向い合って、初めて生きることの大切さと人生の意味が見えてくるものなのかもしれません。

藤原新也「メメント・モリ」の一節に、「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬目の前を過ぎることがあるというものがあります。


死んでもいいと思えるような景色を見つけるために、今を精一杯生きていきたいと思いました。


たくさんの苦労をしてきたけれど、多くの子供、孫、ひ孫に囲まれ、皆が涙を流し、その死を惜しまれながらこの世を去った祖母の最後の景色はどのように映ったのだろうか。



写真はサン・テグジュペリという薔薇。

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